読書備忘録

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意味のある読書にするための備忘録

『ソクラテスの弁明』プラトン

「不知の自覚」、つまり「知らないことを、知らないと認識している」 ことに賢を見出ししたソクラテスの考えに触れることができる。裁判中の弁明のあらすじを紹介してもつまらないのでソクラテスの考えや価値観に関係する部分だけ紹介することにする。

 

 

 

ソクラテスの弁明

ソクラテスが告発された理由は新しいものと古いもの2つある。古いものは「不正を行い。無益なことに従事する。地下並びに天上の事象を研究して悪事を善事として、さらに他人にこれを教えてまわっている」、新しいものは「青年を腐敗させて国家の信じる神を信じないで他の新しい神霊を信じている」というもの。

 

 

ソクラテスが問答法を実践するきっかけはデルフォイでの信託「ソクラテス以上に賢い賢人は誰もいない」である。これに対して善や美について何も知らない自分以上に賢い人間の存在を反証と提示することで神託を否定するという目的で問答法による賢人との対話をはじめた。自己および他人を吟味する仕事は神託をもらった私が死もしくは他の危険があったとしても為さなければいけないことである。

 

 

賢人たちとの多く対話した結果として、世の中の賢人と言われている人達は「何も知らないのに、何かを知っていると信じている」、一方で、私は「何も知らないが、それを知っているとは思っていない」、だから「知らないことを知っていると思っていない」という点で私は他の賢人より賢いという結論に至った。これが何も知らない私を最上の賢者とするデルフォイでの神託の意味するところだと考えた。

 

 

善いことをするには、生命の危険を考慮するべきではなく、「正か、邪か?」「善人のすることか、悪人のすることか?」だけを考慮するべきである。

 

 

死が人間にとって幸か禍か知っている人はいないはずなのに、最大の禍であるように恐れているのは賢くない。私は死後の世界について知らない代わりに、知っていると盲信することもない。

 

 

善いこととは、自分の霊魂をできる限り善くすることであり、これを考える前に身体(生命の危機)や財宝(富や名誉)に関することを考えてはいけない。

 

 

死を脱することは困難ではない、むしろ悪を脱することこそが困難である

 

 

立派になるための方法は、他を圧伏させることではなくて、できる限り善くなるように心掛けることである。

 

 

私の個人的な神霊は私が少しでも曲がったことをすると諌めてくれるのだが、今回の裁判の弁論中には一度も諌められることは無かった。その理由を推測すると、今回私にふりかかった死罪が私にとって善いことだから。

 

 

死は一種の幸福である。死は「虚無に帰すること」か「この世からあの世へ霊魂を移転すること」かのどちらかである。前者であれば、死は夢一つ見ない熟睡よりも安らかなものであり素晴らしい。後者であれば、歴史上の賢者と会うことができ、あの世でも「誰が賢者か?誰が賢者顔してるだけでそうではない人か?」という探求を続けることができるので幸せである。

 

 

これから死ぬ私と告発した諸君のどちらがより良い運命に出逢うかどうかは神のみぞ知る。

 

ひとこと

知らないことを知らないと認識すること(不知の自覚)を大事にしろ

 

善いことをするには「善いか、悪いか?」だけを考えて他の全てのことを考慮に入れてはいけない

 

死を無闇に恐れすぎるのも馬鹿らしいことである

 

善くあるために議論で勝つことを目的にするな

 

時代のせいもあると思うけど、ソクラテスの発言って哲学者のような思想家というよりはむしろ狂信的な神霊信者のようなイメージを受けた。

議論に対する考えは意識したいと思わされた。議論は新しいことを発見するために行うのであって相手に勝つために行うことは承認欲求ドバドバ以外に一切の価値はなく、この話に関しては相手を納得させることができないどころか反発されて訴えられているのである。相手を説き伏せることで何かしらの利益が得られるならまだしもそうで無いのであれば発見の無い生産性のない議論は自ら辞退するべきであろう。

死に対する見解は非常に単純ながら納得感があり、なおかつ反論するのも難しいものなので新興宗教を開くときはぜひこの考えを持って現世利益を謳って安っぽい教義で人を導こうと思う。

あと最後にソクラテスの問答法をリアルで人に絶対に使ってはいけないことを再確認しておこう。他の理由(戦争の責任)もあったとは言え、質問して論破してたら死刑とかたまったもんじゃない。人間が自分の知識に自信を持っているのは今も昔も変わらない事実であり、その誇りを傷つければ怒ってしかるべきであろう。なので知識を誇る相手には合コン女子のさしすせそで華麗に対応することにして、「なんで?なんで?」と問うのは自分自身を相手として考えを深める時、理解していないことを認識するために使おうと思います。